ミニチュア・ダックスフンド 10歳 避妊メス
6か月前より粘液便、血便、排便時のしぶりが続く
全身状態:良好
直腸触診:広範囲にわたる腫瘤性病変を触知。血液の付着あり
直腸粘膜からの細胞診では、異型性の強い細胞群が検出され、腫瘍性病変を強く疑わせる所見。ただし、直腸に発生する腫瘤性病変では、良性でも細胞異型が認められることが多いため、過信は禁物。
腸管腫瘍のTNM分類
T分類(原発) | N分類(領域リンパ節) | M(遠隔転移) |
---|---|---|
T0:腫瘍は認められない T1:漿膜に浸潤していない腫瘍 T2:漿膜に浸潤している腫瘍 T3:隣接器官に浸潤した腫瘍 |
N0:リンパ節転移なし N1:リンパ節浸潤あり N2:遠隔リンパ節浸潤あり |
M0:遠隔転移なし M1:遠隔転移あり |
二重注腸造影(無麻酔)
広範囲に直腸粘膜の不整・糜爛がみられる
腸管の拡張性は保たれ、粘膜外への浸潤を示唆する所見はなし
直腸粘膜の可動性も保たれており、T分類としては**T1(漿膜未満の浸潤)**相当
他臓器・リンパ節
明らかな転移やリンパ節腫大なし(N0M0)
肛門から確認できる腫瘤を結紮し切除、病理検査を実施
→ 診断結果:直腸腺癌
半年間の症状にもかかわらず、浸潤や転移が見られない
広範囲な病変にもかかわらず、T1N0M0という所見
一般的に、直腸腺癌でこれほど時間が経過しても進行が見られないのは不自然
細胞診・組織診においても、直腸腫瘤は良性でも悪性に見えることがあるという既知の知見
このような臨床・病理所見の矛盾から、「高悪性度の直腸腺癌」と断定するには無理があり、臨床判断として“良性ポリープの可能性”も十分考慮すべきとの結論に至る。
病理組織検査上は腺癌と出ているが、臨床的に矛盾点が多く、良性の可能性も高い
根治を目指す全摘術は人工肛門造設を伴いQOLに大きく影響
よって、粘膜層のみの切除(直腸粘膜引き抜き術)を選択
ただし術後の再評価で腫瘍の悪性度が高ければ再手術が必要になる可能性があることを了承
選択術式:直腸粘膜引き抜き術(粘膜下切除術)
・腫瘍の粘膜下浸潤がないと判断し、粘膜層のみを剥離して切除
・この術式は侵襲が少なく、骨盤腔膿瘍や縫合不全などの合併症リスクを大幅に低減
・腹膜反転部を超える症例でも比較的広範囲の切除が可能
※クリックすると画像が確認できます
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直腸粘膜過形成および腺腫様ポリープ(マージン:陽性)
術後1か月で排便時のしぶりや出血は消失
現在術後3年が経過、再発なし・QOL良好
術後6か月間はピロキシカム療法を併用
術後1か月で排便時のしぶりや出血は消失
直腸腫瘍の診断は、臨床所見と組織学的診断が必ずしも一致しないケースが少なくない。とくにM・ダックスフンドなど犬種特性や、直腸の病理的特異性に配慮が必要である。
組織学的に“腺癌”と記載されていても、粘膜上に限局し転移所見がなければ良性の挙動も
このようなケースでは、「粘膜層のみ切除術」も十分な選択肢となりうる
ただし、すべての症例にこの術式を当てはめるのは危険
1.浸潤性の有無:触診、造影で筋層以上への拡がりを確認
2.転移所見:明らかな悪性像の有無(リンパ節、遠隔)
3.臨床経過:長期にわたり緩徐な進行かどうか
4.犬種:とくにM・ダックスフンドでは良性の偽陽性が多い
病理診断に絶対はなく、臨床医の目・感覚・判断こそが最終的な治療選択の鍵となる。
“治療のし過ぎ”によるQOLの損失を防ぐことも、獣医師の大切な役割である。 慎重な判断と臨床的総合評価によって、本症例は侵襲を最小限に抑え、良好な長期予後を得ることができた。